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揖保乃糸とは?

揖保乃糸(いぼのいと)は兵庫県手延素麵協同組合が有する手延素麺の商標です。 

明治39年(1906)年に「三神乃糸(さんしんのいと)」「聖乃糸(ひじりのいと)」などとともに商標登録されました。

兵庫県手延素麵協同組合は、約500人の組合員からなる生産者組合です。
明治20(1887)年に設立され、平成19(2007)年に創立120周年を迎えました。
組合員は、それぞれが揖保乃糸の生産者として活動しており、生産されたそうめんは全て検査員による格付検査が行われた後、組合専用保管倉庫に入庫されます。
そうめんは、組合において保管後、組合から販売特約店に販売されます。

当社は、揖保乃糸を生産する組合員であり、また販売特約店でもあります。

そうめんの歴史

唐からの伝来
奈良時代の遣唐使が持ち帰った食物には、醤油、納豆、胡麻(ごま)油、唐菓子などがありました。この唐菓子の一つ、索餠(さくべい、さくへい、むぎなわ)が素麺の原形といわれています。

唐菓子には、その他粽(ちまき)、草餠、煎餠(せんべい)などもあり、現代まで引き継がれています。小麦粉や米粉に塩などを加えて練り合わせ、蒸したり、油で揚げたりして作り、仏前へのお供えとして、用いられていたようです。当時は、練ったものを引き延ばし、縄のように縒(よ)り合わせて乾燥したもので、長さが6~9cmでした。

平安時代の索餠
平安時代の書物「延喜式」や「天延ニ年記」には、索餠に関する記述がみられます。「延喜式」によると、宮中では毎日、天皇と中宮に索餠が出されています。その原料は、小麦、粉米、塩で、細くて長い索餠をつくっていたようです。

鎌倉時代に索麪へ
鎌倉時代には、宋で修行した栄西や道元によって、新しい製造技術が持ち込まれました。宋からの帰国後、建仁寺、永平寺を建立すると、寺を索麪製造所にしています。 その他、京都周辺では東福寺、醍醐寺、相国寺、奈良では興福寺でも製造が行われていました。この頃の製造方法は、麺生地に油を塗り、熟成させ、棒に掛けて引き延ばすという形に変わっており、現在の日本で行われているのと同じものが出来上がっていました。

室町時代に素麵へ
室町時代は、宋や元の文化や禅宗文化の影響を受け、和食(禅風食)が発達しました。公家の間にも素麵として広まっていきます。また、当時の文献からは、素麺屋なるものがあったこともうかがえます。

播州のめんづくり

中世の播州素麺記録
播磨で最も古い素麺の文献は、奈良・法隆寺の末寺である揖保郡太子町鵤の斑鳩寺に残る「鵤庄引付」です。応永25年(1418)9月18日、鵤荘内での土地を巡る紛争に関して、寺が守護職の使いを酒と「サウメン」でもてなしたと記録しています。また、貢ぎ物として素麺を贈ったともあります。
このことより、六百年の昔から播磨地方において、素麺が食されていたことがうかがえます。
鳩庄引付(いかるがのしょうひきつけ)

江戸時代の播州素麺記録
山村家文書というものによると、宝永5年(1708)、当時の庄屋が病気になり、近在の70人から病気見舞いが届いたとき、そのうち10人が素麺であったと残されています。このころには、正月用の贈答、夏場の中元、暑中見舞いとして、素麺がよくつかわれていたそうです。また、素麺札(現在の商品券)も発行され、贈り物として使われていました。

そうめん造りが盛んになった理由
兵庫県南西部の播州平野を流れる揖保川は、水質の良さで知られています。流域一帯の伏流水は、カルシウムの含有量が1ℓあたり30~70mgと極めて少ない軟水で、この地方の手延素麺や淡口(うすくち)醤油の生産にかかせない水です。
また、揖保川流域には肥沃な農地が多く、小麦栽培が盛んでした。揖保川の西部には、塩で有名な赤穂もあります。
原材料である小麦、塩、水を好条件で手に入れることができました。
その他、製造期間である冬場に雨が少なく乾燥した日が多いということが製造上の利点であり、製品は揖保川の高瀬舟で瀬戸内海まで送り、その後帆船にて京阪神の消費地に輸送するなど条件が揃っていました。

揖保乃糸の歴史

組合設立前
素麺の起源は、遣唐使が持ち帰った唐菓子「索餅」といわれています。播州で最も古い素麺の文献は、奈良法隆寺の末寺である揖保郡太子町斑鳩寺に残る「鵤庄引付」にあります。その中で、「応永25年(1418)9月18日に寺が酒とそうめんで客をもてなした」との記述があります。すでにこの時、素麺の製造が行われていたことがわかります。その後、江戸時代には素麺製造・販売が許可業種となり、藩の保護・振興政策を受けながら、じっくりと時間をかけて広まっていきました。 

明神講、開益社による組織化
しかし、江戸時代の播州地方の素麺は、各自のブランドで販売していたため、知名度は低いものでした。組織もないため、生産量、価格共に不安定でした。明治の藩籍奉還後、生産局が設置され、素麺肝煎(世話役)が選ばれます。生産局が廃止となった後は、明治5年に「明神講」、明治7年に「開益社」が設立され組織化が進んでいきます。どちらでも職人賃金や粉挽き賃を定め、製造基準についても取り決めを行い、製品の統一を図っています。開益社は明治20年まで続き、現在の兵庫県手延素麵協同組合の前身となる播磨国揖東西両郡素麺営業組合の結成へとつながります。 

組合の設立
明治20年に設立された播磨国揖東西両郡素麺営業組合では元兵庫県会議員の西村精一郎氏が初代頭取となり、49条の定款を設け、製品検査を実施し、合格証の付いたもの以外は販売させないようにしていました。また、「揖保乃糸」の統一商標もなく、個人の登録商標で販売されていた時代でした。明治26年、第2代頭取として澤野利正氏が選ばれ、こののち、組合の第1期黄金時代を迎えるようになります。 

揖保乃糸 誕生
第2代頭取の澤野利正氏は、組合名称を「揖東西両郡素麺製造業組合」に変更し定款も大幅に変更しました。検査法として品質、量目、荷造の3項目を行い、品質によって1~7等級に分け、生産者の意欲、技術向上を図り、市場での評価を高めるようにしています。明治39年に商標として登録したもののうち、「三神乃糸」「揖保乃糸」が現在まで続いています。その他、奈良県の大神神社から分祀した素麺神社を建立、1,500人を超えた組合員の技術指導の場である組合直営の模範工場を建設、量目表示の変更、標準価格制度の実施など、さまざまな施策を打ち出し、全国トップの産地に育て上げ、組合の近代化を図りました。

日本一の産地へ
組合の近代化、合理化に取り組んできた第2代頭取の澤野利正氏は、大正5年(1916年)勇退します。この後、全国的な知名度が上がったことから、組合の名称から揖保郡を外して「播州素麺同業組合」とします。組合区域も揖保郡(現たつの市と姫路市の一部)だったものが宍粟郡(現宍粟市)まで広げ、昭和5年(1930年)には、姫路市に本拠を置く中播素麺同業組合と合併します。この合併によって、組合員は3,234名、生産量は手延素麺64万箱、機械素麺25万箱、機械うどん5万箱、計94万箱を製造する大産地となりました。昭和6年には、手延素麺99万8,000箱をはじめとして、計137万8,000箱を製造する日本一の産地を形成しました。

組合存亡の危機
太平洋戦争中は生産割当により、昭和18年には生産量が40万箱まで減少しました。その後、小麦が素麺生産用に回されなくなり、昭和20年には12万箱、昭和21年には2万3,000箱まで落ち込み、組合存亡の危機となりました。その後、外国産小麦の手当等による原料確保を行い、少しずつ生産量を増やし、昭和26年には13万箱を生産します。昭和27年、原料小麦の統制が解除となったことをうけ、生産は24万箱まで一気に伸びました。しかし、生産量の急増に伴い、粗製乱造の製品が出回り、小売店からの苦情も相次ぎました。組合は小麦粉を高級にしたり、製品検査を厳重に行うなどの努力の結果、昭和30年には30万箱を生産しました

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